Royue

80キロ離れた独居の母の介護を中心に起こったこと、その後の施設入所後のことを書いています。

介護122:県立がんセンターに行く・・これから検査。でもほぼクロかなあ?

県立がんセンターの正面玄関(少しレトロ!)

しばらくは、母の介護より、私自身のことになりそうです。2024年4月17日、今日は、Tクリニックから紹介状を書いていただいた「県立がんセンター」の予約で9時半から診察のある日です。前日に私が冷蔵庫に貼ったカレンダーの予定表に「がんセンター9時半」と小さく書いたので、女房が仕事を休んで行くと言いだし、「まあほとんど待つだけやろなあ」と言いましたが・・

初めて「がんセンター」なる病院に行きました。十年以上前に外観を見た程度でしたが、当時は何か近代的は建物と思っていました。でも実際に行くと、ちょっと年期の入った古いレトロな建物でびっくりしました。その後、この病院は以前は「成人病センター」という名前だったとわかりました。中に入ると天井が低くて、おまけに母が検査を受けたA医療センターのように各科と診察室の場所が直線的でわかりやすかったのと比べて、ここは、迷路のようになっていました。内部は狭い通路が多く、建屋を付け足したのでしょうね、すぐに自分がどこにいるのかわからなくなります。

受付で今日の順路表と呼び出し用の機械(マックの呼び出し機を4倍くらいしたサイズの)をもらいました。これで時間がきたら知らせてくれるようです。

左が持参した本で、右が呼び出しの機械

9時45分頃に呼び出しがありました。泌尿器科の若いS先生でした。(後で調べると2020年卒業!とだけホームページに載っていました。)話すうちに、こちらの言うことに耳を傾けてもらえるので好感が持てました。まあ「PSA値132」をどう評価するかですが、この時点では、本に書いてあった内容、すなわち「PSA値100以上は、ガンの疑いと転移の疑いが濃い」ということ以外にないのですね。そこで、私から「PSA値100以上の患者さんは、どの程度いますかね?」と聞くと、率直に「10人にひとりくらいですね、1000を超える方は1000人にひとりくらいですかね」とのことでした。また、次に、「前立腺肥大で体積が40CCなのは、ここの患者さんでは、どの程度の偏差値ですか?」と聞いてみると、「まあ52ですかね?」なぜ、50にならなくて52なのか?、私の推測ですが、「大体平均的なので安心しなさい、少しだけ大きいだけ」ということを言いたかったのでは?と思います。まあ、いい人と思います。また、私から「ここでは、前立腺がんの放射線を含めたすべての手術ができるのですか」という質問に対して、ここでは放射線は1種類(名前は?)で、放射線でも種類ごとに何々病院と具体的に説明くださいました。最先端は、神戸のポートアイランドの〇〇の由。

その後は、今後の検査の予定を言われ、私は早くお願いしますと言うと、今日17日は「Tクリニックと同じ血液検査、尿検査、細胞診」と「造影CT」、24日にPET、26日にMRI、30日と5月1日は1泊で「生検」となり、すべて予定を押さえてもらえました。「生検」とは、前立腺に針を10本ほど刺して組織を採取するのです。私は実は、近くのTクリニックの先生から「SPA値132」と聞いて、この2日間で、かなり勉強?してきたので、これらの検査もほぼ予想通りでした。

なお、私がすでに前立腺に関する本を読んだことは書きましたが、ブログでの前立腺癌闘病記がないか探すと、克明な記録を残しているブロガーがいました。貴重な記録です。それがこれ。感謝以外ありませんね。90記事もありましたが、昨晩に一気読みしました。

ameblo.jp

その後、血液検査等の結果がでたので、12時前に再度S先生と面談しました。血液検査、細胞診も何ら問題ない(すべて範囲内!)のに、「SPA」だけがやはり異常値です。「132から115」に下がっているのですが、まあ誤差の範囲とのこと。

異常値はSPA115だけ!

今日の面談で、S先生と話している内に、「これは、前立腺ガンは、ほぼクロだな」と思いました。今後の関心?は「転移」がないかということに移ったような気がしました。また、前立腺ガンは、一般的には、骨とリンパ節への転移が多く、臓器への転移が少ないことから、先生からは「腰とか背中が痛くないですか?」としきりに聞かれたのですが、私は、左下腹の鈍痛しかないので位置関係を確認し、「それなら膀胱に何かあるのでしょうかね?」とのことでした。また、Tクリニックで指摘された「水腎症」についても、「腎盂あたりにたまっているなら尿管が何かで詰まっているかもしれないが、調べてみないとわからない」とのことでした。
いずれにしても、すべての結果は、5月8日です。まあ、ほぼ「クロ」と諦めかけていますが、怖いです。診察後に看護師さんがわざわざ来て、左下腹の鈍痛のことで、「もしものために痛み止めを出しておきましょうか?」と言われたので、「次回24日までは大丈夫と思うのですが・」と答えたのですが、「じゃあ頓服でも・」と言われたので、処方してもらうことにしました。この配慮は本当に有難いのです。でも、何だかガンが転移している前提での話と思えてくるんですね。少し寂しいですね。

先生との面談のあと、造影CTをして今日の予定は終了なのですが、CTに行ってみると、「予定以外の方は、最後になるので、少し時間がかかりますよ」といわれ、この日は、朝9時から15時前にやっと終わりました。やれやれ。私は、こんなこともあろうかと1冊本を持ってきていました。この本のことは、また後日書きます。

介護121:介護者の私の検査結果は?・・唖然、PSAが3桁って?

腎盂ガンの母の介護をしていたら私の腎臓にも問題が発覚したわけですが、2024年4月15日の9時半から、2週間前に行った泌尿器科のTクリニックに検査結果を聞きに行きました。前立腺肥大(40CC)と水腎症というのが前回の診察でしたが、血液検査、尿検査、細胞診結果からさらにどんな結果が出てくるのかと心配しながらの2週間でした。この間に、趣味の自転車(ロードバイク)の練習もやっていますが、左下腹にかすかな鈍痛を感じることもありましたので。

また、この2週間で私は、母の腎盂ガンのこともあり、下の写真の「よくわかる泌尿器の病気」と「前立腺の病気」という本を図書館から借りてきて読んでいました。ネットで調べる情報も貴重ですが、こうして2冊まるまる読むと体系的に整理できていいものですね。少し古い本ですが全体像をつかむには十分です。

図書館から借りた2冊

それで、予めTクリニックに行く前に、何がポイントになるかを予想していたのですが、腫瘍マーカーの「PSA」に見当をつけていました。実は、私は現役時代は毎年「人間ドック」を受けていて、その時に腫瘍マーカーも検査していたハズという記憶があったので、その記録を探し出したのです。それが下の写真です。その結果を改めてみると、9年前ですが、2015年が1.66,2014年が1.25、2013年が1.16でした。今日はまあ、4以上がガンの疑いがあるようなので、この4を超えるかなあと思っていたのです。

 

人間ドックの記録(ピンクの付箋が、PSA値)

9時45分くらいに、先生から呼ばれました。先生は大量の検査結果を見ながら、「腫瘍マーカーPSA以外は、血液検査も細胞診検査も異常はありません」と言いました。私が思わず、「じゃあ、PSAは4以内でしょうか?」と具体的に聞いたのです。そのあと、先生は、「PSAは、132です???というのですね。

私はいうと、唖然として「3桁ですか?、そんな数値ってあるのですか?」と聞き返しました。私から、「4以上だとガンの疑いが濃いというのを本で読みましたが・・」というと、先生は頷きました。それから先生は、「紹介状を書きますので、検査を受けてください。県立ガンセンターがいいと思うのですが、他にも、K中央病院とかもあります。どうしますか?」というのです。私は母が検査を受けたA医療センターでもなく、スバリ「ガンセンター」という言葉にびっくりでした。しばらく頭を整理する必要がありましたが、「では一番近い県立ガンセンターでお願いします」と言いました。また、今は母の介護以外はフリーなので、できれば、早く受けたいというと、その後に明後日の4月17日(火)の9時半に予約が取れたとのことで、私が帰るまでに、紹介状や資料を素早く準備いただきました。これは本当に感謝でした。

私は2016年以降のリタイヤ後は、毎年の市が行う無料の血液検査までは受けていましたが、それらには問題もなかったことから、特別に費用のかかるPSA等の腫瘍マーカーは受けていませんでした。また、適度の運動、またはそれ以上に過酷な自転車(ロードバイク)でのロングライドをやっていましたので、健康には過信していました。悔やまれますが、そのことを今更言っても仕方がありません。

家に帰って、借りてきた「前立腺の病気」の本を再度調べてみました。この本を読んだときは、前立腺肥大のことが主な目的でしたので、まさか前立腺ガンのことなど、まあ、読み流していたのですね。その本を再度開いて見つけた内容が以下の通りです。126ページに書いてありました。

「検査値(PSA)が100を超えるPSA値であったら、ほとんどの場合、ガンがみつかります」でした・・・

なお、家に帰って、女房がいたのですが、私に一瞥をしただけで何も聞こうとしなかったので、私も無言でした・・・

 

 

 

介護120:2つ目の緩和ケア病棟(ホスピス)訪問・・怒り心頭に発した!

 

今度はO病院を訪問!

2024年4月9日(火)、今日は14時から予約してもらった二つ目の緩和ケア病棟(ホスピス)のあるO病院の訪問日です。4月6日に訪問した最初のF病院は少し遠い(7キロ)ので、出来れば近いここのO病院(3キロ)の方がいいかなと思って13時15分に車で母を迎えに行きました。朝から雨で、少し止んでくもりになったばかりです。今日は早く終わって、もし雨が止んでいれば、母を近くの公園の桜を見せてやろうと思い、念の為、車椅子を車に積み込みました。

13時半過ぎにO病院に着きましたが、ここはロータリーもなく、雨よけもなく、車を止めるのも狭くて困りました。車から車椅子を出して、母を乗せてフロントで待たせ、駐車場へ車を止めて戻ってくるのさえ、ひと苦労ですね。

受付を済ませて待っていると、呼び出しがあり、「緩和外来診察中」の看板のかかった部屋の前に行き、狭い通路で待っていると中から呼び出しがありました。

部屋には、先生の机と患者用のベッドがあり、椅子が3脚で比較的広い診察室です。そこには若い男の先生と50才代くらいの看護師さんがいて、早速面談が始まりました。先生からガンの告知の経緯について聞かれたので、私から3月のA医療センターでのことを言いましたが、それ以降に先生からは、「ここではいっさいの検査はしません。血液検査、検尿、CTもしません。痛みの緩和で医療用の麻薬を使うこともあります」とのことで「検査なし」を強調されていました。まあわかるのですが、少しきついなあという感じです。私が今まで「ガンではなく腫瘍と言っていますが・・」と言いましたが、ほぼ考慮されませんでしたね。また、私からここに入所するタイミングについて聞くと、「それは、Cグループホーム提携病院のS先生の判断です」と、これは、F病院と同じでした。それと、先生は緩和ケアの場合は2か月以上はダメなので、その場合は、家に戻るか、出てもらうとのことでした。また、病床数のことを聞くと、「それは看護師さんから聞いて下さい」とのことで、まあ、約10分で先生の面談は終了しました。

その後、母と私は、診察室から出て、すぐ前の狭い廊下(下の写真)に移動しました。どこか他の部屋に行くのかと思ったら、この狭い廊下で話をするようです。すぐ向こうの部屋では事務の方や数名の女性が見えていて、その部屋のドアを開けたまま、看護師さんから母と私に「緩和ケア病棟のルール」の話がありました。

私は、こんな狭い廊下で、こんなシリアスというか、タッチィな話を、後ろの人達に筒抜けでするの?と思いましたね。その場所がたまたま来た時に撮ったこの写真!です。

私自身は、母がこの場所に同席さえさせたくないのに、まあ、言ってみればオープンで、それはそれでそう言ってくれれば我慢もするのですが、何ら配慮もなく、まったく知らない人が聞ける状態で、そこは、たまたま待っている患者さんも母のすぐ後ろにいないだけの状態でした。こんなところでする話かーいと思いましたね。

うしろに見えるのは事務の方なのか、部屋の中には結構な人がいますし、話の途中でも人が行き来します。そんな中で、「看取り」の話や、入院ルール、面会ルールの話をするのですね。看取られる母を前に、ましてその母は認知症で我々の話が全部はわからないとはいえ、「看取り」「看取り」と言われるのはどうなのでしょうね・・

その看護師さん曰く、まず病床は、ここでは2階に緩和ケアの個室が18あり、相部屋はないとのことでした。また、もし満床の場合は、一般病棟で入院して空きを待ってもらう由で、今は満床とのことです。特に強調されていたのは、面会ルールで、平日(月~金)はトータル1時間可で1回2名のみ、土日祝は、どれか1日で、予約制で、14時から30分毎で16時半までの枠で予約する必要ありとのことでした。まあ管理側の大変な気持ちはわかりますが、そこまで強調すべきものでしょうかね?

見学のことはこちらから聞く前に、「見学はできませんので、写真で説明します」と言い、レイアウトの書いたパンフレットはもらえましたが、ラミネートフィルムに入った古い写真!?での説明でした。

最後に費用のことを聞くと、「それは会計の方に聞いてください。基本的には入院と同じです。」とのことで、私は、ただただあっけにとられました。

私は平常心で聞いていたのです。でも、この廊下での説明と、費用のことについて「私は知らない」と言われたので、流石に限界にきましたね。怒り心頭に発しました。ブチ切れました。私は慎重に言葉を選んで(選んだつもり)、「後ろのドアも閉めず、廊下でこのような母の最期(さいご)の話をするのは如何なものでしょう。違和感がありますね。母のプライバシイーってどうなんでしょう。それと、私は母にもこの話は聞かせたくないと思っていました。」とマスクをしているので、くぐもった声でゆっくりと言いました。まあ、最近のストレスもあったのでしょう、かなり頭に血が上っていましたが、カスハラ(この場合は、ペイハラすなわち、患者=ペイシャントハラスメントと言うらしい)に当たらないように言いましたが・・

その後、私は母の車椅子のブレーキを外して、フロントの方へその看護師の顔を見ないでそそくさと行きました。そしたら後で、会計の伝票をもってその看護師が追いかけてきたので、私は、「ここには多分来ると思います。でも、今日の話は違和感がありますね」といい、なぜか額に汗をかいているこの看護師に言いました。一応の糸は繋いだつもりですが・・・

今日のこのO病院の対応は、「人として」の配慮に欠けると思います。私たちが廊下で話をしている時も、先生のいる大きな部屋には誰も入室していないのは、ドアのすぐ前の廊下で話をしているわけですから判ります。であれば、大きな診察室で先生が一緒にいてマズイのでしょうかね。先生が席を外すのもあります。現に先日6日のF病院では先生はそうしました。私は、F病院のことがあったのであまりの扱いの差にびっくりしただけで、このO病院ではこれが常識なのでしょうね。最初にF病院に行っていなければ我慢できたかもしれません。

まあ、できればここには母を入れたくないと思いました。

その後に会計を済ませ、気分が乗りませんが、せっかく雨がやんでいたので、母を車に乗せ、近くの「石ケ谷公園」に桜を見に行きました。ここはほぼ1周400メートルトラックの競技場の大きさで、廻り全部を桜が取り巻いています。でも、この日は強風で満開の桜も結構散っています。母は、車の中で持ってきたいつもの「いちご」を美味そうに食べながら、「ほんまにきれいやなあ。でも、今年はもう最後やな」と言いました。来年も見れると思っているのでしょう。

これを聞くと、何か切ないですね。今日の私は、流石にブチ切れて「母さん、ごめん」です。

車から公園の満開の桜を見る母

介護119:緩和ケア病棟(ホスピス)を訪問・・母と見学!図書館のような?

2024年4月6日(土)は、Cグループホームの提携病院のSクリニックから「緩和ケア病棟」(いわゆるホスピス)のあるF病院に10時に予約をしてもらい、受け入れのことを聞きに行く日となっていました。

朝9時15分に母を迎えに、Cグループホームに行くのですが、私の女房が、土曜日で仕事(かろうじて現役です)が休みということもあり、行くと言い出しました。女房が母と会うのは、1年前の入所日以来ですね。1年前の入所時では、母は女房のことが判らずでしたので、女房も諦めているというか、もう会っても意味がないと思っているのですね。でも流石にホスピスとなると気にはなるのでしょう。母の介護についての女房の関与は最小限です。今まで嫁姑関係では、結構意見が違い喧嘩もしましたので、私からは、今はいっさい何も言わないのが得策と思っています。その件はまたいつか書ける時がきたら・・・

グループホームの2階から1階のフロントに出て来た母は、明るい顔なのですが、足の浮腫みが外から見てもすぐわかるほどになっています。横にいる女房のことは、多分ヘルパーさんとでも思っているのでしょうね。

施設から預かった予約票と先生への資料を持って、車で7キロ、20分ほどで着いたホスピスのあるF病院は、建物も新しく、フロントも本棚があったりして、そんなに大きくはないのですが、少し趣の違う「図書館のような」病院です。(写真)

10時の予約で、ほぼ時間通りに誰もいないがらんとした2階の会議室に通され、担当の若い女性の先生と看護師さん2名、こちらは母と女房と私の3人での面談です。最初に先生から緩和ケアとはどういうものかの説明があったのですが、その説明の中でも、再三「ガン」という言葉が出てきます。その後に先生から「ガンの告知はどういう形でありましたか」と聞かれたので、私が、「3月8日にA医療センターで担当の先生から、母と私の前で言われました。その後は、私はできるだけ腫瘍と言うようにしています。」と少し強調して答えたのですが、そもそも母がちゃんと理解しているかはわかりません。多分、理解していないと思います。そこで私から先生に「母だけで話をされるなら我々は席を外しますし、逆に母に外で待ってもらうのもどうですか? 私はこのようなことは初めてですし、こんなケースはどうされるのですか?」と聞くと「患者さんへの告知が前提ですので・・」ということでした。そこで、しばしの沈黙のあと、私から「じゃあーこのままで粛々とやりましょう」と言いましたので、以降は先生はすべてガンという表現を使いました。

その後、先生から多分、マニュアル通りの説明がありました。要は治療はしないことが前提なのです。私は、来る前にこの病院のホームページにある動画を見ていたのですが、ほぼそのままの内容でした。ちなみにここの緩和ケア病棟の病床は30床で、内、個室が6床で、個室は現在満床の由です。そのような話の中で、私が質問したのですが、「どのようなタイミングでここへの入所を決めればいいのですか?」と聞くと、先生は、「Cグループホーム提携病院のS先生が判断されます」とのことでした。その後、この説明内容を聞いたというサインがほしいということでしたので、私が母に「名前は書けるよね」と聞きました。すると、私は半信半疑だったのですが、母が頷き、嬉々として自らしっかりした漢字でサインをした!のでした。それから、私も母の書いたサインの下の「代筆者欄」に書こうとすると、「ご本人のサインがあれば、要りませんよ」って言われました。認知症でもこの場合の自筆サインは有効なのですかね。世の中、ちょっと怖いですね。びっくりしました。まあ、具体的に入所となると、すべてまた一から私がサインすることになるのですが。それにしてもその際に、「いっさいの治療をしません」ってサインは重たいですね。

その後、先生は退出し、看護師さんからここのルールについての説明がありました。その中で、面会のルールについては、その時の状況によるとのことで、現在のルールは、14時から17時までで、個室の場合は、1日1回のみで30分間で4人まで同時に、相部屋の場合は、1日1回のみで15分間で2人まで同時とのことで、それぞれ1日に別の人で2回はできないことを強調!されていました。費用は、普通の病院に入院するのと同じ「入院」の取扱と同じようで、健康保険の高額療養費が使え、その範囲(母の場合は24600円)と、これに食事代とレンタル費(テレビ、冷蔵庫、洗濯機等)、室料金差額(個室1万円/日)がかかる由でした。なお、ここの入所者の入院日数はだいたい2週間くらい(最期という意味)で、長いケースで2カ月で転院したケースがあったとのことでした。以前に、ほぼ姉の「T姉さん」に聞いたのと同じ2週間でした。また、説明書の中に、「飲酒も可能」としっかり書いてあったので、これもT姉さんに聞いていた通りで、まさか書いたものを見るとは思いませんでしたね。

飲酒も可能と書いてある!

なお、「個室を希望されますか?」と聞かれたので、「空いていれば個室にします」と答えておきました。

20分ほどで一応の説明を終え、「見学ができますか?」と尋ねると、「いいですよ」となり、全員でエレベータで4階に行きました。ここは、まだ5~6年ということで、広々とした1フロアがすべて緩和ケアフロアとなっていて、綺麗さにびっくりしました。この綺麗さは私の予想を超えるものでした。

見学の間に母に何かを聞くことはしませんでしたが、私から、「もし腫れがひどくなって、痛くなったときにここに入院するかもしれんねん」とだけ言っておきました。

帰りの車の中で、いつも通り母には、家から持ってきた「いちご」を食べてもらいました。母は、相変わらず美味しそうにいちごを食べていましたね。

 

図書館のような・・

介護118:母の腎盂ガン告知を受け・・私も腎臓に問題が発覚!

 

本日の診察料9230円也

2024年3月の母の腎盂ガンの告知を受けて、私は腎臓の病気に関して徐々に過敏になってきました。実は私自身が、今までは、7~8時間の睡眠でもトイレの必要がなかったのですが、今年の1月くらいからでしょうか、6時間睡眠くらいでトイレに行きたくなるので、「あれっ!」と思っていたのです。また、飲み会で友人と「連れション」(下品でごめんなさい)すると、いつも私が一番最後なので、このことも「あれっ」と思っていたのですね。その上、最近は、少しお腹の左の下あたりに痛みというか違和感があったのでした。

そんな中で今年3月に母のガン告知があったのでした。今までは、私自身のことは少しは気になっていたものの、まあ「適度」の運動(週一の35キロライドと、年2~3回の1日に100キロ以上で300キロ程度走るロングライド旅のこと)をしているので大丈夫と過信していたのです。ところが、母のガン告知をきっかけに一挙に不安になったのでした。

そこで、2024年4月1日に、私は重い重い腰を上げ、自宅近くの泌尿器科のTクリニックに9時前に電話したのでした。初診は予約なしで行き、問診票を書いて順番を待つ必要がある由で、すぐに行くと、幸いにも9時半にT先生の診察となりました。最初にわたしが夜6時間でトイレに行きたくなるというと、先生は「4時間以上なら年齢もあるし普通ですね」とのことでした。また、「少しお腹の左下が痛いというか違和感がある」ことも言い、早速エコーになりました。15分も経たない内に、先生がエコーを見て、先生が、「左の腎臓に黒いところがありますね。尿管結石はなかったですよね。であれば、水腎(すいじん)のようですね。」とのことです。要は尿管が詰まって尿がたまっているようなのですね。その後、先生は、「前立腺肥大ですね。40CCくらい。普通だと15~20CCだから2倍。もっと大きいのだと60CCもありますね」というのです。診察を受けてわずか15分程度のエコーでわかるようなら、もっと早く診察を受けるべきだったと悔やまれましたね。

前立腺肥大については、元々いろいろ調べていたので、ああ、やっぱりかというのが第一印象でしたが、水腎(すいじん)については、唖然としました。そこでこれからどうすれば良いのかと聞くと、「水腎の原因は、生まれつきというケースもり、その場合は今まで気づかないし、そのままで様子を見るこことになります。腫瘍!!のケースもあるので、細胞診と採血、腫瘍マーカーPSA)をやってその結果を見て、A医療センター(母が検査したのと同じ総合病院)で、CTか造影CTをやればどうでしょう」というのが先生の見解でした。

私の今までの大きな病気とケガは、このブログでも書いた救急車で運ばれた「BPPV(良性発作性頭位めまい症)」(→満床で帰宅)と「アキレス腱断裂」(→1週間の入院)の2件だけです。今回のようなこの手の臓器の病気は初めてなのですね。ちょっと恐怖です。

でもまあ68年間もこの2件だけで済んでいるわけですから、幸いと考えるしかないですね。

いずれにしても2週間後どんな結果になるか・・・・

この日、母のいるCグループホームに今度、母と一緒に訪問するホスピスのあるO病院の「予約票」を取りに行ったのですが、その時に私の今日の泌尿器科受診のことをHケアマネに、「今日、実は私も腎臓に問題が見つかったので・・」として話をしたのです。そしたら、Hケアマネ曰く、「お母さんが病院に行けってことを知らせてくれたんですよ、きっと・・・」と言うのでした。

何でもないことを祈るばかり。「母さん、有難う」

 

写真は、本日の診察料(9230円)です。これと別に薬代(860円)もあり、本日の総費用は、10090円也。結構、家計に響きますが、必要経費です。

介護117:ホスピスって・・・お酒を飲んでも?

A医療センターにて

2024年3月は、母のA医療センターへの診察が4回あり、これで腎盂ガンの告知となったわけですが、18日から29日まで東京から次女と孫が来ていて、母の面会とともに、ほとんど雨の中、姫路城へ連れていったり、淡路島に1泊で行ったり、近くのショッピングセンターやレストランへ行ったりと「お客さん扱い」でタイトなスケジュールな上、それに加え、以前からあった予定で、私は大阪で知人と会いに3回も大阪に行きました。その内、3月2日は日帰りし、3月16日・17日は、趣味の自転車(ロードバイク)で節約と久々のロングライド挑戦で空き家への往復(160キロ)を走り、3月29日から31日は、車で空き家への往復をしました。私にしては、忙しい1か月となりました。母のガンのことの対応等、色々考えなければなりませんでしたが、移動したり知人にあったりと逆に忙しかったことで気が紛れましたね。

そんな中、3月29日に空き家に行った折に、昨年3月23日に亡くなった私にとってほぼ兄(血縁はないがほぼ60年のつきあい)の「T兄ちゃん」の奥様の「T姉さん」のところに、母のガン告知のことを伝えに会いに行きました。空き家に着いて、すぐにLINEで都合を聞いて行くと、元気そうな「T姉さん」を見てほっとしました。挨拶もそうそうに、母のことを言うと、「ROYちゃん(私のこと)、まあ、今までようやったから、もうそれでええんちゃうの」と言ってくれました。

以前にもブログに書きましたが、「T兄ちゃん」は、胃がん抗がん剤治療をし、一時は「オプチーボ」が効き、ゴルフに復帰できるまでになったのです。それが急に効かなくなったのが2022年の夏頃でした。体重が徐々に減り、最期を覚悟した「T兄ちゃん」は、胃がんのステージ4で、2022年の12月に余命3カ月と言われ、夫婦ふたりでホスピスも見に行ったのでした。

その頃は、モルヒネも使っていたと思いますが、ホスピスを2施設ほど回った由で、H市のHN中央病院に新しくできたホスピスが設備もきれいで、「うちの人(T兄ちゃん)がえらい気にいってここにするって言うたんよ」とのことでした。たばこはだめですが、お酒も飲める!と言われたとのことでした。お酒のことは初めて聞く情報でしたが?

費用についても聞くと、具体的に教えてくれましたが、そもそも長期間ではないし、10%負担なら大したこともない由でした。

結局、「T兄ちゃん」は、ホスピスに行くこともなく、自宅で「T姉さん」が、亡くなる前日の3月22日の晩もずうっと「T兄ちゃん」と話をして、自分の葬式のことや使う写真、息子さんや孫のことなどすべてきちっと言って、息をすうっと引き取ったのでした。80才でした。

今回の話は、ある程度以前にも聞いたと記憶しますが、ことホスピスのこととなると、まさか私が、これを調べる当事者になるとは思いませんでした。私もまだやっとホスピスの定義が「終末期医療やケアを行う施設」というのが判ったくらいで、どんなタイミングで入所できるのか、費用は?、治療行為は?、面会は?とかまだまだ解りませんし、ターミナルケアってどういう意味とかいうレベルなのです。「T兄ちゃん」ご夫婦には、母の介護のイロハを教えてもらい、今回またホスピスや看取りのことも教えてもらいました。ただただ感謝ですね。

それと、「T姉さん」は、息子さんに言われ、今回、墓仕舞いを決意したとのことでした。実は、私の父と兄のお墓は、「T兄ちゃん」に世話をしてもらったのですが、「T兄ちゃん」のお墓のすぐ傍なのです。私の父と兄の墓の墓仕舞いのことは、まだ考える余裕はないのですが、今後また教えてもらうことになりそうです。そしたら、「また教えるからね」とのことでした。

その後、母のいるCグループホームの提携病院のSクリニックから電話があり、2024年4月9日14時に、ホスピスのあるO病院へ聞きに行くアポが決まりました。認知症であっても一緒に行くと保険が効き、私ひとりで行くと保険が効かず5000円から6000円の負担が発生するとのことでした。どういうこと? まあ診察なのですね。込み入った話はたぶん母は理解できないと思うので、小声で話すのかなあと思いながら・・・

介護116:施設提携病院のS先生と面談・・ホスピス入所準備とペインコントロール?

グループホーム提携のSクリニックのHP

2024年3月27日に母のいるCグループホームの提携病院のSクリニックのS先生との面談がありました。もともとCグループホームへの定例の往診日である3月25日に合わせて、私がCグループホームに行く予定で、当日の午後は家で呼び出し時間で待機していたのですが時間がわからないため、別途翌々日の27日の11時半にSクリニックに直接来てほしいということになったのでした。

このS先生は、そもそも母の体重の変化が大きいことから総合病院への診察を勧めて頂いた先生なのです。その結果、母の「腎盂ガン」がわかり、ステージ4であることも判明したわけです。そういう意味では、母の何かおかしいという変化を気付いた最初の人なのです。その後、A医療センターでの検査と結果については、CグループホームのHケアマネには、メールでこのブログで書いた内容を要約して伝えていますが、HケアマネがそのコピーをS先生に送っているとのことでしたので、面談は今の母の情報をすべてご存知で、A医療センターから担当を移管されたという前提での面談なのです。

S先生との面談予定は11時半なので15分前に行ったのですが、S先生も予定を空けて頂いたようです。S先生は、たぶん70才代?で、高齢者施設の提携病院が主な仕事のようで、まあ聞き上手なタイプなのでしょうね。私が待っているとすぐの11時20分には面談となりました。今までいろいろな病院に行って、予定より早く往診なり診察になったのは初めて!かもしれませんね。

今回S先生から伺ってわかったことは、まず、終末医療として、母のいるCグループホームでは痛みをコントロールする薬(モルヒネ)は処方することはできるが、限界があるとのことです。痛みがなければ、Cグループホームでの「看取り」のケースは今までもあった由ですが、痛みが出た場合は、Cクリニックのような施設提携病院では対応できず、病院かホスピスへ行かざるを得ないとのことです。そこで、私がA医療センターから聞いたホスピスのあるO病院とF病院のことで「それぞれ綺麗に映っているホームページを見ましたが、どうなんでしょうね」と質問すると、S先生は、「どこの施設がいいとか先方の事は知りませんね。ただ、申込にあたって詳細なデータを求めてきますので、その場合は、A医療センターのデータが必要です。私の所では、今あるのは紙のデータですので、CD-ROMとかが必要で、それはA医療センターに要求します。」とのことでした。ホスピス側が受け入れる人の評価をかなり厳しくしているようです。

この時に初めて、母のあの造影CTがS先生に紙の状態で引き継がれたことが判りました。いまどき大容量とは言え、そういうやり方のようですね。

私が、今後の母の予後(余命)のことを聞きましたが、当然ですが答えはありません。また、私が1年前に私の「ほぼ兄のT兄ちゃん」がモルヒネを打ちながら最後まで自宅で看取ったという奥様(T姉さん)のことを知っているという話をしたのですが、癌の浸潤で神経を刺激した場合に想像を絶する痛みのようで、母の場合は、今はたまたまそれらの位置が外れているだけという言い方でしたね。

その後、私としては、「ホスピス終末医療施設)について、予めこちらの事情を説明していざという時のために見学や入所までの期間(待ちの状態)を聞いてみたいのですが、どうすればいいですか?、私が直接電話すればいいですか?」と聞くと、「であれば、こちらから先方に電話して訪問日を聞きます。」とのことでした。ということで、私は電話待ちということになりました。