Royue

80キロ離れた独居の母の介護を中心に起こったこと、その後の施設入所後のことを書いています。

介護56:父の姉のこと・・・母がよく墓前で言った満州のこと?

 

暫く大阪の空き家へ行けておらず、また私だけでも、お盆にせめて墓参りをと思っていたのですが、台風が来ていたので諦めました。台風の後にすぐに行こうと思ったのですが、いろいろ家を離れられないことがあり、今頃ですが、明日行こうと思います。

母は元気な頃は、お盆に私が帰省すると、3か所(私の父と兄の墓、自分の両親の墓、父の両親と姉の墓)の墓参りに行くと言うので、私が車に乗せて約3時間で回ることが日課になっていました。いつも、朝から出て昼過ぎに終わり、外環状線にあるチェーンのステーキ店でランチをするのが、ルーティーンになっていました。母はとにかく牛肉が好きなのです。今年は4月から母がグループホームに入所したので、母はともかく私一人でも、行っておかなかければと思います。行かないとなんだか少し後ろめたい気持ちになるのですね。

いつも最後に行く一番遠い父の両親の墓は、奈良の大和高田にあります。父は10才以上離れた長女を筆頭に上に3人の姉がいて、その下の初めての男で長男なのです。そんな年の離れた長女(私の叔母)は、結局、婿をもらい「家」を継ぎ、「姓」を継いだので、この墓には、父の両親(私の祖父母)と長女夫婦(私の叔父叔母)が眠っているのでした。私の小さい頃のこの叔母の思い出は、とにかく男みたいな激しい性格でよく父に強く言っていた記憶がありますね。母は、実は父と結婚後すぐに、この長女夫婦の所に同居したということと、すぐにその家を出たということはよく言っていましたね。言いにくそうにですが・・。それはわかりますね。

母がこの大和高田のお墓に来るとよく言っていたのは、このお墓に彫られた文字を見て、父の姉(長女)は満州からの引き揚げ者ということと、髪を全部丸めて男のようにして帰ってきたこと、途中2人の幼い息子を亡くしたということです。その二人の息子の名前が墓に彫られているのですね。あの強さがないと、満州からの引き揚げはできなかったのでしょうね。私はその後そう思いました。

また、父の次女夫婦も満州で何かの事業をやっていた由で、どうも製薬関係で、今でいうサロンパスのようなものを作るか、販売していたとのことで、それ以上詳しいことは、母の言葉からはわかりませんでしたが・・。また、満州から引き揚げた後の長女の夫(私の義叔父)は、戦後、製薬会社で定年まで勤めていますので、何等かの関係があったかと思いますが、それも今は調べる術さえありません。

私が小学生くらいからでしょうか、この話をお盆にいつも聞かされていたので、私の頭には、その「満州」という言葉が刷り込まれていました。そのこともあり、よく満州関係の本を読みましたね。その中で一番、この叔母(父の一番上の姉)が、どこかに書かれているのではと思うのが、冒頭の藤原ていさんの「流れる星は生きている」で、満州から3人の子供たちを連れて帰ってきたその様子が克明に描かれています。非常につらい話ですが、どうも、重なるのですね。

ご存知の方も多いと思いますが、山岳小説で直木賞新田次郎さんの奥様で、数学者で「国家の品格」の藤原正彦さん(満州引き揚げの3人の中の真ん中の息子さん)のお母さんです。このお墓に来る度に、満州のことがよぎるのですね、私は母の話をきっかけに新田次郎さんの山岳小説も好きで、ほとんど読みましたし、藤原正彦さんのエッセイも結構読みましたね。また、満州のことを書いた浅田次郎さんの小説とか、「溥儀」や「溥傑」、「ラストエンペラー」関係の話も読みました。奈良の墓に行くと終戦が身近になります。でも、私の娘やその世代の人が終戦を感じたり、満州や引き揚げ者のことを感じることは多分これからはないのでしょうね。

前回の投稿の翌日の朝から、クマゼミのあの激しく鳴く声は全く聞こえなくなりました。厳しい酷暑です。まだ「ツクツクボウシ」は鳴きませんね。今年は遅いような。奈良とクマゼミ満州がどうも、私の頭の中のお盆ですね。