Royue

80キロ離れた独居の母の介護を中心に起こったこと、その後の施設入所後のことを書いています。

介護156:最後の面会・・永訣

92才母の腎盂がんステージ4で、2024年5月4日に施設で転倒し、大腿骨骨折の手術で3週間入院、5月24日にホスピスへ転院し20日目の状況です。

・・・・・・・・

2024年6月12日(水)、今日も女房と車で14時に面会に行きました。母の個室に行くと、母は「はあはあ」という声を出して息をしています。しんどそうです。いつも通り声を掛けながら、首筋をマッサージしますが、もう反応はありません。

1時間ほどして、看護師さんが部屋に入って来て、「そろそろ呼吸も小さくなって(表現が?)いるようですので、今日は、17時以降も付き添いができますがどうされますか?、もちろん付き添いもなしでいいのですけれど・・」と聞かれたので、「私がしますが・」と答えました。すると、「では、ベッドの横にソファーをお持ちします。上掛け布団をレンタルされますか?」と聞かれたので、そのようにと答えました。私としては、初めてなので少し戸惑いましたが、その後、一旦は家に帰って、必要なものを揃えて、出直そうと思ったのです。約2時間、母の部屋にいたら、母の様子が少し違って、目を大きく開けていて、左目から涙が少しでていたのですね。私は慌てて看護師さんを呼んだのですが、その看護師さんは、特に問題もない様子ですぐに帰られたのですが、私は、その後に、母の左目の涙をウエットティシュでふき取り、一旦、家に帰るために部屋を出たのです。それが15時45分頃です。

その後、女房と一旦、家に戻って支度をしていたら、16時5分に、F病院から電話がありました。「お母さんの息が変わってきました(たぶんこんな表現?)ので、すぐに戻ってほしいのですが・・」とのことでした。

16時10分頃に、家での支度も適当に済ませて、急いでF病院に向かいました。まあ、女房は家にいる選択肢もあったのですが虫の知らせなのでしょうね、一緒に来ました。

16時35分頃に、部屋に入ると、母はもう息を引き取っていました。愕然としましたね。

多分、我々が一旦帰ったあとの数分後のことだったのでしょうね。母の最期のあの涙が不思議でなりません。女房も見ていました。今思うと、私が「一旦、帰るわ」と言ったあと、母はもう限界だったのでしょうね。私はあの涙で、母の最期をしっかり見届けたと思っています。母もあれが、私へのメッセージだったと。

その後、17時5分に先生が部屋に来て確認をされました。

私は、その後、最少限の電話、東京の次女と、今、存命の母の兄弟である、叔父(母の弟)と叔母(母の妹)へ、母の亡くなったことを電話したのですが、最初の一言だけで声が出ませんでした。情けないのですが。

今まで、この拙いブログにお付き合いいただいた方には、切にお礼申し上げます。また、コメントを頂きました方にも。

暫くお休みさせていただきますが、また、きっと再開します。私自身の病気のこともありますし。