Royue

80キロ離れた独居の母の介護を中心に起こったこと、その後の施設入所後のこと、2024年6月12日の旅立ち以降のことを書いています。

介護40:足踏みミシンのこと・・・月給の3か月分って!?

ミシン類と車に乗せた足踏みミシンの足の部分

先日、テレビを見ていたら、昭和20年代の嫁入り道具の人気商品はミシンとのことでした。戦後は洋服ブームで若い女性は誰でも憧れとともに、〇〇モ-ドとか洋裁学校が大流行の時代だったと伝えていました。また、当時の足踏みミシンは、一般の勤め人の月給の3倍もする由でした。昭和6年生まれの母もその一人だったのでしょうね。母は洋裁学校をでて、さらに自分で業というか内職で洋服の仕立てまでやっていました。当時の私の家には、足踏みミシンとさらに、電動の業務用ミシン、ロックミシン、持ち運びの電動ミシンの4台と、大小のアイロン類、大量の巻物?の生地と端切れ、ボタン類で一杯でした。その後、今のところに引っ越しをしてからもどんどん小道具が増えていきましたね。当時はよくスーツを作るための検寸(寸法を計る)の為でしょうか、見知らぬ人が来ていました。私が今でも覚えているのは、中学校の詰襟の学生服(黒の標準制服)を母が作ってくれたのですが、母はいつもそれは「ウール100%やねん」と誇らしげに言ってました。また、裏地まで十分な生地がなかったのか、裏地は黒の端切れをうまくわからないように継ぎはぎしたものでしたね。もちろん表地はそんなことはないので、どこから見ても高級な詰襟で、そのことは今になっても忘れません。

母は、1986年11月に私の兄(33才独身)をある事故で亡くし、翌年、8月に父(57才)を病気で亡くしましたが、ここで一念発起して、洋裁ができることから、何と55才から72才まで、大阪市内のアパレルメーカーに勤め出したのです。息子の私と母と言うのは会話はしますが、いつも詳しい話まで聞かずで、よく言っていたのは、「吉本の芸人さんの衣装の手直し」があったということぐらいですかね。

その後、母は目が加齢黄斑変性で悪くなり、その結果、アパレルメーカーも72才で辞め、徐々にミシンも使わなくなりました。この会社での仕事を通じて母は、有り難いことに色々な人と知り合い、よく海外も含めた旅行に行っていましたね。

その後、私は、帰省の都度、その作業場の古いミシン類が邪魔で、「なんでも捨てない母」にいつも怒っていましたね。それで、たまたま昨年2022年の2月14日にミシンの引き取り業者(堺にあるSミシン商会)を見つけ、ミシン4台全部を引き取ってもらいました。左の写真がそのミシン類で、右の写真は足踏ミシンの足の部分で、これは業者が引き取れないということで、私が市の施設まで車に積み込み、有料で処分してもらいました。

今回、そのテレビを見て、月給の3倍、今で言うと、100万円ぐらいの価値と聞くと、なんだか捨てたくないという母の気持ちも少しわかるような気がしましたね・・。

当時、このミシンの引き取りの業者さん曰く、修理して「老人ホーム」等に寄付することもある由でした。その時点では、母が今の施設(グループホーム)に入ることなど考えも及びませんでした。でも、有効活用してもらえるなら、それもまた有難いことです。

ミシンがなくなった作業場なのだが・・